| 俺は酔いの回った頭を一振りした。 その行為は酔いを醒ますどころか、何とも言えない浮遊感で俺を満たす。 何故こんな状況になったのだったか、をふと考えた。 「えー……っと」 「えーと?」 組み伏せた腕の下から怪訝な声で丞相が問いかける。 「まさか今更分からないとでも言うのではあるまいな」 「丞相…」 俺は思わず顔をしかめた。 * * * 一月ほど前、俺は殿…張繍殿と共に魏へ下った。 丞相率いる魏の軍勢は天子を担ぎ、破竹の勢いで周辺諸国を飲み込んでいた。 いや。この言い方は適切ではない。 暴虐だけによる支配ではなく、治安と屯田という農制の確立によってその勢力を伸ばしており、あの時、袁紹からの使者も来ていたものの、時世の流れは火を見るよりも明らかであったのだ。 その時から我が殿は漢の丞相たる曹孟徳となり、俺自身、一気に多忙を極めた。 張繍殿のところに居た時と異なり、丞相の周りには武官といい文官といい、とにかく人が多い。好むと好まざるとに関わらず、まずその付き合いもせねばならなかった。 今日も今日とて、夏侯淵殿から将棋に誘われ最初の「一局だけ」が、もう片手では足りない対局になっていた。 自身が負ければ勿論もう一勝負を催促されるが、勝っても「今のお手並みをもう一度拝見したい」と言って、中々解放しようとはしない。 が、俺もけっして渋々付き合っているわけではなかった。 この人が時折向ける、刺すような目が心地良かったからだ。 そうでなくとも、常に曹孟徳の敵として行く手を阻んできた俺が、ついにはその丞相自身をも刃にかけるところまで追い詰めたのだ。 生え抜きの曹陣営の者ならば、少なからず胸の内に怨恨は秘めていようし、まして丞相の縁者である夏侯淵殿の心中は如何ばかりであることか。 その彼の微かな敵意は、魏に下ってから己の胸に湧く、得体の知れない何かを和らげてくれる。 温んだ風が静かに室を流れた。 「降参かな、夏侯淵殿」 半刻ほど前から右手を顎に当てたまま動かない彼に言葉をかける。 夏侯淵殿はその姿勢のまま、上目遣いでこちらを見ると、 「いや、まだ」 と、短く言った。 玉将を動かそうにも桂馬が控えていて動かせないでいるのだ。脳内で、手持ちの駒との駆け引きが盛んに行われているに違いなかった。 この静寂もたまにはいい。 俺は夏侯淵殿の気がすむまで静かに待つことにした。 「こんなところに居たのか」 その時、突然、第三者の声が割って入った。 「殿」 夏侯淵殿が顔を上げる。 部屋の入り口に、丞相が立っていた。 「すまん妙才、お前ではない」 少しもすまなそうでない言い方だ。 「まさか妙才の部屋にいるとはな…探したぞ。何だ?将棋を打っていたのか」 つかつかと歩み寄ってきて、盤を覗き込む。 ふぅん、と少し首を傾げると、身動きできない玉将を指差して 「どちらの手だ?」 と問うた。 「俺だ」 忌々しそうに夏侯淵殿が答える。 「そうだな…」 瀕死の玉将をどう生還させるつもりだ? あの時の夜襲に思いを馳せ、盤上を彷徨う右手を眺めながら、 「私?」 と、俺は呟いた。 「そう、文和、お前に用がある」 「火急の用ですか」 呼び出されるにしても普段は使いの者が来ることを考えると、丞相自らというのは只事ではない。 「文和。今日は床を共にする」 ………確かに只事ではない。 |
<一部抜粋>
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