| いよいよこの時が来た。 これから曹操…殿と謁見する。 これまで俺は、何人か主を替えてきたが、常に彼とは敵対する立場にいた。 そして俺の策が用いられれば負けはなく、殿の所に居る時などは、彼に近しい者と配下を死に至らしめたばかりでなく、彼自身をも死の一歩手前まで追い込んだ。よもや知らぬはずはないと思う。 それが証拠に、今、俺に向けられている彼の配下共の目ときたら、それで殺せるものならばと言わんばかりだ。 俺は無表情を装った顔の下で自嘲交じりにほくそ笑んだ。 あやつらは知らぬ。 曹操の息の根を止められなかった時点で、あの策は点睛を欠いたことを。 貴様らの目は、むしろその慰めにしかならぬことを。 それが彼の下で、首を繋げたままこうして膝をつくことになろうとは…。 いや。 跪くことを後悔したり、恨んだりしているのではない。 時は確実に彼の下で流れようとしている。 それを感じたからこそ、向こうから外交の特使として劉曄がやってきた時は、道術の類は信じない俺ですら天の采配かと思ったほどだ。 そこまで敵対した俺を登用しようという彼の度量に驚きもし、またこうして生き長らえる自分の悪運の強さにも驚くのだ。 突然、周囲に緊張が走った。 が、隣で頭を伏せている殿は、周囲以上の緊張を身に纏わせる。 無理もない。 例え先方からの誘降とはいえ、何が起こるか分からぬのが今の世だ。まして、一国の主となればその重責は並ではない。 沓音が、同じように伏せた頭の向こうに近づいてきて、丁度、俺の前で止まった。 「ご両名、面を上げられよ」 年に似合わない、若い声だ。 そう思いながら静かに上体を起こすと、まばゆいばかりの朱錦の戦袍と黒髪の対比以上に鋭い視線が、俺を射抜いた。 俺は……… 「賈クとは其方か」 声を掛けられ、我に返った。 何なのだ、今のは…。 心の奥底で得体の知れないものが沸き起こるのを必死で抑える。 今まで遠目にその姿を認めることはあっても、直接言葉を交わすのはこれが初めてになる。 「は、そうでございます」 少し細められた双眸で、一瞬、危険な…そう、有体に言えば殺意を含んだ光が瞬いた。 その光は、先刻感じた得体の知れないものを消し去り、代わりに大いなる安堵感をもたらした。 何のことはない。この男も同じものを持っているではないか。 が、それはすぐさま消え、満面の笑みが殿へと向けられる。 「張繍殿、どうぞお立ちあれ。こうして我が意を汲んでお出で下されたこと、何ものにも代え難き喜び」 「滅相もござらん。儂としても過去」 「いや、その儀は」 殿の言葉を曹操…殿が、強く遮った。 「子揚からも聞き及んでいるかと思うが、それ以上は」 「…は」 俺は内心、苦笑した。 殿にはここに出向くまでに、あれほど気にしなくて良い、口に乗せる必要はないと進言したにも関わらず、言わずにはいられなかったのだろう、過去の因縁を溶かそうと思ったに違いないが、敢無く徒労に終わってしまった。 しかし曹操殿は気分を害された風もなく、少し談笑した後、殿を揚武将軍に任命、俺に執金吾を命じた。 これにより、俺の主は曹操殿と、なった。 |
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