index/三国志大戦





空はまだ暗かったが小降りになったから、と丞相府を出てきたものの、結局途中で雨に降られてしまった。さっきの出来事のお陰ですっかり疲れ果て、のろのろ歩いていたからだ。
それでも地面に溜まった雨水が既に裾に跳ね返っていたから、しばらくはそのまま歩き続けていたのだが、途中にちょうど雨宿りが出来そうな木陰があったのでそこに立ち寄ることにした。
何度か雷を落としていた雲は、もう既に他の場所に標的を替えた様子だったけれども、雨はまだそうもいかないようだ。

さて、どうしようか。

私邸まではまだ少し距離がある。
空の様子を見ても、いつ止むともしれない雨をここでやり過ごすより、濡れたついでにさっさと帰った方が建設的なようにも思えるが、不思議なもので一旦雨のかからない場所に入ってしまうと、そこから出るのは中々に足が重い。
「急ぐ用事があるわけでもなし…」
俺は樹に寄りかかった。
掌で木肌を触ってしまい、鈍い痛みで再び記憶が甦る。
雨が降ると、あの男の顔を思い出しそうで嫌な気持ちになった。
いや、そういう連想はだめだ。
気象みたいにいつでも起こりうるものと関連付けては、自分がいやな思いをするだけだ。
溜息と共に、その記憶も吐き出せたらどんなにいいだろう。

そんなことを考えていたら、遠くから水を蹴る足音が聞こえてきた。
この、急な雨では満足に雨具の用意もしていないだろうから、さしずめ目指すところはこの木陰か。
誰かが来るとなると面倒だな、と樹から背を離して足音の方を振り返ると
「元直殿」
と、声をかけられた。

厄災再び。

「まさかこんな所におられるとは」
俺もまさかこんな所でまた会うとは思ってもみなかった。
「元直殿。話しかけても返答もしないというのは、貴方の悪い癖ですよ。そんなだからさっきみたいに…」
「荀ケ殿!」
余計なことを言われる前に遮った。
「丞相にお会いしに行った割には早いお帰りですな。お会い出来ませんでしたか」
「いいえ。ちゃんとご許可もいただきました」
藪蛇だ。自分で自分が呪わしかった。自ら話を振るやつがあるか。
もっとも、ある方向での回答を期待もしていたのだが、それもあっさり断ち切られた訳だ。
「光禄勲府の仕事を邪魔しないようには仰せつかりましたけど、尚書台の皆さん、優秀な方達ばかりですから」
「え?」
今、矛盾したことを言っていないか、この男は。
「どうせ口実ですし」
「え?」
最後の言葉は、声が低すぎ聞き取れなくて、聞き返したが返事がない。
しかも何故そこで目を逸らす!
荀ケは、どこか遠くを見つめたまま、よりによって俺に…と言っても他に誰もいないのだが、そう、俺に凭れ掛ってきた。
存外、低い体温が触れ、ひやりとした。
「あ、あの…っ」
慌てた俺に、咄嗟に巧い言葉が見つからない。
「濡れた身体をつけても寒いだけだと思うがっ」
荀ケがこちらを見た。
「濡れた身体」
そこを復唱するな!
「大丈夫です」
…俺が大丈夫じゃないんだが。こちらが嫌がっているとは微塵も考えないのだろうか。
俺は荀ケの身体を樹に預けると、一歩離れて立った。
「あ」
あからさまにむっとしている。
いつも仮面のような笑顔しか見せない男が珍しいことだ。
が、気にしないことにする。
それにしても、だ。
先程の言い草は何だ。
俺の光禄勲府での仕事に差障りのないように、は分かる。問題はその後だ。尚書台の連中は優秀だから…。
「他に優秀な人達がたくさんいるのなら、わざわざ俺が手伝う事などないのではありませんか」
「そこは貴方が関与するところではありませんよ」
結構な否定の言葉を吐きながら、いつもの笑顔に戻る。
「尚書台のことは私が取り仕切っているのですから。そんなことより」
たった一歩の距離を、荀ケは手招きする。
「ここからだとそう遠くはないし、いっそ家に寄りませんか。今、良い酒があるんです。身体を温めてからお帰りになると良い」
「断る」
「何もしませんよ?」
何もって何だ。
「話を逸らさないで頂こうか、荀尚書令殿」
話を戻そうとその言を発した途端、雨よりも、いや雨で冷えた身体よりもつめたい空気が周りを包んだ。
「今、何と仰いました?」
荀ケは変わらぬ笑顔をこちらに向けてはいたが、身に纏う空気が明らかに変わっていた。
しかし、雰囲気くらいで負けていては何も言えなくなるではないか。
「話を…」
「そうじゃありません。私のことを、今、何と呼びました?」
「荀尚書令殿、と」
役職で呼ぶのはごく普通のことだ。
それともまさか、俺は役職を間違えたのか、と記憶を掘り起こす。
「貴方は、権力がお好きなのですか」
「………」
思わぬ質問に答えが出ない。
「私は好きでも嫌いでもありませんが、不必要なところで使うのは嫌いです。だから、貴方とお話する時は使わないようにしていましたが…」
これはさすがにちょっとまずい、と思い始めた俺の緊張も相まって、益々辺りの空気が張り詰める。
「貴方が権力を好きだと仰るなら仕方ありません。手伝いのことも、これから私の家に寄ることも、貴方に拒否は出来ませんよね、徐右中郎将殿」
荀ケが詰め寄ってきた。
「ちょっと待て!」
俺は慌てて押しとどめる。
「俺も権力など好きではない!こと、人付き合いで使わずにすめば、それに越したことはないと思っている!思ってはいるが、それとこれとは話が別…」
「別ではありませんよ」
冷ややかに言う男の、その目は笑ってはいない。
「私は噂に聞く潁上の徐元直殿とお近づきになりたいと思ったし、貴方が魏へ来た経緯を思えばこそ、権力を使わずにいました。でも私が間違っていたようです。貴方と仲良くするには権力こそ」

「分かった!俺が悪かった!」

いかん。それ以上言わせては。
俺の神経が危機を察知して棘を刺す。
さも、俺を労わるかのような発言の中に、明らかに不穏な言葉が混じっていたが、勝手に物事を決められては堪らないし、しかもその決断は俺にとって限りなく危険な方向に行こうとしているに違いなかった。
「元直殿」
忌々しいことに、目の前の男は一瞬にして晴れやかな顔に戻っている。
俺の方はといえば、苦虫を噛み潰したような、とは正にこのこと。
「一対一で話す時に、役職名を使わなければいいのですな!」
「では文若と」
「それはご勘弁いただきたい」
半ば自棄にはなっていたが、そこまで承諾するほど自分を見失ってはいない。
「仕方がないですね。ではさっき言った言葉をもう一度。分かったって」
「……分かりました、すみません…」
「先程はそんな慇懃な言い方ではありませんでした」
さほど背も変わらない男から、何故、上目遣いで睨まれているのだ、俺は。
「俺が悪かった…!」
何故、俺は何度も謝っているのだ。
大体、謝るようなことをしたのか?
それどころか、実は俺には何の選択権もないことを思い知らされて、いっそ泣きたいくらいだというのに。
反して荀ケは目を輝かせて佇んでいる。
俺は心の中で頭を抱えた。
この男が勢いで無茶を言う前に、ここから立ち去らなければ。
そう思った俺の耳に、ゆっくり水溜りを踏む足音が聞こえてきた。

助かった。
ここの連中とはろくに会話もしていないが、誰であれ、そいつに荀ケを押し付けよう。

現われたのは隻眼の将軍だった。
なんと準備の良いことに傘を持っている。ゆっくり歩いているはずである。
「これはこれは」
益々ありがたいことに、向こうから声をかけてきた。
「お一人はともかく、珍しい人に会ったな」
「ご記憶に留めていただき、光栄です」
‘珍しい’のは間違いなく俺のことだ。俺は丁寧に頭を下げた。
「当然だ」
夏侯惇は口の端を上げた。
今は、この蜀嫌いの人に何を言われようとも構わなかった。ここを離れるのが先決だ。
だが、構えた言葉は出てはこなくて、
「しかし」と、蝿でも追い払うかのように左手を振る。「何かここは空気が妙だ。喧嘩でもしたのか」
「しませんよ、喧嘩など」
荀ケはにこりと笑ったが、夏侯惇もさすがに曹操の片腕として戦場を走り回るだけのことはある、勘の鋭い男だと思った。
その夏侯惇が俺に向き直って、傘を少し揺らした。
「俺はこれから程イク殿に会いに行くんだが、あんた確か私邸が近くだっただろう?送っていこうか」
渡りに船だ。
しかし、家に寄れと言う荀ケの言葉を思い出し、恐る恐る…情けないことに文字通りに恐る恐る荀ケを見た。
でないと、本心がばれそうな気がして仕方がなかったのだ。
視線の合った荀ケは、それこそ満面の笑みで
「丁度いいですね。夏侯惇殿に送っていただきなさい」
と言った。
この笑顔。もしや、俺が許可をもらおうとしたなどと勘違いしたのではあるまいな。
「私はこのまま帰りますので」
「すまんな、荀ケ殿」
「近くですし、傘1本に三人で入るのはさすがに」
と、苦笑する。
「お先に」
と、俺は荀ケに頭を下げた。
「また明日、お会いしましょう。元直殿」
明日?!会う予定などないが!
しかし無表情を装いながら、夏侯惇の傘に移る。
それを機に、荀ケは私邸の方へ足早に向かって行った。

まだ雨は降り続いている。
私邸に着く頃には、結構濡れるかもしれないな、と思った。

黙って歩き出した夏侯惇の歩に合わせて、俺も歩き出した。
「荀ケ殿と仲がいいんだな」
「は?」
「あの人の雰囲気が、殿のお傍にいるときと同じだったからな。厳密には少し違うんだが…悪いな、俺には文才がないんで上手く言えねぇ」
「はぁ…」
「無くなってからな」と、自分の左目を指差す。「実際に見えないものは感じるようになった。まぁ伝えられねぇから今までとあんまり変わらんのだが…ところで」
「はい?」
「どっちが勝ったんだ?」
俺は何のことか分からずに、きょとんとしてしまった。
「何がですか?」
「喧嘩だよ。やってたんだろう」
「喧嘩というか…」
結果的には俺が一方的にやり込められていただけのような気がする。
「喧嘩にもなってないというか…」
「やっぱりなぁ」
夏侯惇が呟く。
「あの人に勝てる人は中々いねぇな。郭嘉辺りが頑張れそうだが、頑張らないしな」
………ここには何か、裏の組織構造でもあるのだろうか。
「ま、喧嘩するほど仲が良いってこった!」
背中をばしっと叩かれ、思わず咽た。
しかもとんだ誤解だ。
この誤解を解く術を考えなくては。

だが、俺は知らなかった。
大いなる厄災は、雨に濡れながらも足取り軽く、私邸に向かいながら呟いている言葉を。
その無邪気な笑顔を。

「今度は何と言って困らせようかな」







<了>

*back*