index/三国志大戦


ぼんやり曇った空は、東から次第に暗くなり始めている。
書室の中にけだるく湿った風が流れ込んできた。
気分まで滅入るような風だった。

今日はもう私邸に戻ろうか…

曖昧な色の空と同じようにぼんやり考えながら、広げきっていない竹簡書の巻いてある方をぽん、と押した。くるくると竹簡書は回りながら自動的に巻かれていく。
巻ききったそれは止まることなく回り続け、机から転がり落ちた。
机に肘をついたまま、落ちた竹簡書を眺める。
竹簡書をしまうにも、私邸に戻るにも、腰を上げなければ先には進まないが、立つのも億劫だった。


実際に気分は滅入っていた。
今日、丞相に珍しく呼び出されたと思ったら、許昌での内務を命じられたのだ。
暗にお前の軍略は必要ない、と言われたも同然であった。
手段はどうあれ軍師として呼ばれた身であれば、本来ならこのような命は屈辱であるに違いないが、その軍師の才を用いられる喜びは、とうに…しかも自ら捨てたのだから、今更必要ないと言われたところでどうだと言うのだ。
だから、命を受けたその時は特に心も動かなかった。
だが、ほんの少し感じた違和感。
それを確かめたくて書室に寄った。
幸い、ここには様々な書物があり、学問に励んでいた頃を懐かしみながら考え事をすることが出来る、最たる場所であった。
二、三適当に竹簡書を広げ、何となく目に映る文字を追いながら考える。

何を落ち込む必要がある?
戦場に出たら出たで、いつ懐かしい顔に会うともしれないと仮面を用意した。
その仮面は始めこそ顔を見られたくないと思ってのものだったが、あの人達は、真っ向からの勝負を望んだ。
「俺がそんな遠慮を喜ぶと思ってんだったら、俺のことまだ分かってねーよなー」
と、酒好きの豪傑はからからと笑ってのけた。
だからそれは、いつしか俺自身の躊躇う気持ちを隠すためのものとなった。それでも実際に攻撃しなければならなくなったら直接攻撃は避けたくらいだ。
そんな戦場に出ずにすめば、今もって敬愛する旧主にも攻撃しなくてもよくなる。

喜ばしいことではないか。それなのに。

拳を握り締めた。

違う。
嬉しいことがあるものか。

平和な許昌に篭もるということは、親しかった人々に会うことが一切なくなるということ。
ほんの少し、言葉を交わすあの瞬間がなくなるということ。
それに気付いたとき、胸の奥に微かに光っていた星は流れて、消えた。
辺りに広がるのは、漆黒の闇。


     * * *


どれほどの時間、そうしていただろうか。
ふと、握り締めた右手にじんわりした痛みを感じて気が付いた。拳から血の気が引いていて、指を開こうと思ったが動かない。
窓の外が先程より薄暗かったが、暖かい湿気を帯びた空気が日暮れとは違うことを物語っていた。
遠くに雷鳴が聞こえていた。もうすぐ、雨が降り出すのかもしれない。
床に転がった竹簡書を改めて認識する。
とりあえずあれを拾おう。
左肘に預けていた上体をゆっくり起こした。

「寝ているのかと思いました」

ふいに声をかけられ、身体がびくっと動いた。
声の主は竹簡書を拾い上げると、机上に置いた。
「今の反応」くすりと荀ケが笑う。「居眠りを指摘されたかのような反応」
からかった内にも入らない言葉は、訳もなく俺を苛々させた。
少なくとも曹操の譜代の臣になど、今、この時に会いたくはなかった。
「あ。右手」
握り締めた俺の拳に手を伸ばしてくると見るや、俺は即座に引いて隠した。
「もしや長いこと、そのままでした?だめですよ」
背中に回した右手を取ると、握り続けた緊張から上手く動かせないそれを少し擦ってゆっくり指を開いていく。
「やっぱり。ね?血が滲んでいるでしょう?」
爪が掌の皮膚に食い込んだ痕がうっすら赤く滲んでいた。
再び手を引こうと力を入れたが、意外に強い力でもって開放してはくれない。
荀ケは少しの間、掌を眺めていたが、おもむろに唇を押し当てた。
掌の上で、生暖かい湿ったものが蠢く。
腕の皮膚が粟立った。
「荀ケ殿ッ」
「生憎、薬は持ち歩いていないものですから」
「そういうことを言いたいのではない!」
一瞬、激高しかけたが、急にそれも虚しくなって声を落とした。
「……放っておいてくれ」
「そんな訳にはいかないでしょう。丞相から聞きました」
そう言いながら右手は開放してくれたが、背側に回ってきた荀ケがその頬を俺の首筋に静かに当てた。
「貴方が丞相からの下知を受けられたあと、私共も呼び出されましてね」
おそらく賈クや荀攸ら他の軍師共だろうが、それを気にする前に、荀ケの言葉と共に首筋に当たる呼気に俺は更に皮膚を粟立てていた。
「荀ケ殿、俺の背から離れ…っ」
「しーっ」
それは耳に息を吹き込まれたも同然だった。
先程声をかけられた時以上に、俺の背が跳ねる。
「だからまだ公達たちがその辺を歩いていますから、大きな声を出すと見られます」
それ以前に、あんたがそんなことをしなければ何の問題もないだろう、と言いかけた言葉は荀ケの
「内務を命じられたそうですね」
の言に飲み込んでしまった。
「声をかけても返事が出来ないほど落胆する気持ちも、想像出来なくはないですが…」
僅かだが襟元を緩められたのを感じて身じろいだ。冗談じゃない、何をする気だ。
「掌を舐められて初めて声を出すなんて、存外、元直殿もいやらしい」
「な…ッ」

別れ。仮面。懐かしい人々。旧主。内務。…そして、この、荀ケ。
頭の中が混乱して、立ち上がることも忘れている自分。

突然、激しい雨音と雷鳴が窓の外から聞こえてきた。
「いやな雨ですね。さすがにこの雨の中を帰るのは躊躇います」
荀ケが呟いた。
「でも、もう少しこうしていられるかな」
腋の下に腕を差し込まれ、背後から抱きしめられているような格好になった。衣の上で掌が蠢く。
だが誰かが見たとしても、近寄らない限りは、俺が読んでいる竹簡書を荀ケが覗き込んでいるようにしか見えないだろう。そう思うと、ぞっとした。
「内務もそう悪くはないですよ。私もここしばらくは許昌ばかりですが…」

何故、俺は動けない…!

こんな状況でまともな話をされても、衣の上からとはいえ胸を這い回る掌が気になって、一向に頭の中に入らない。
指が、触れてほしくないところに辿り着こうとしていた。
「漢王朝のために働ける喜びと、丞相のお役に立っている充足感…この二つを同時に味わえるのは内務だからこそですし…ねぇ元直殿?」
「…ッ」
俺は、この状況からどうやれば逃れられるのか、そればかりを考えていたので呼びかけられても返事も出来ず、ましてや荀ケの指は、疎ましくもそれに反応して固くなったところを器用に探り当てて押し潰し、そんな瞬間に声など出せようはずもなかった。
「私の仕事、元直殿に手伝ってもらおうかなぁ」
無邪気な含み笑いが首筋に響く。
「…いっそのこと、閉じ込めてしまいましょうか」
「何…を」
言っているのだ、と問いかけようとして返ってきた答えは、
「貴方をですよ」
聞きたくもない、念押しの言葉。
同時に布の下で尖っていた先端を抓まれ、思わず声が喉から洩れた。
「ほら、仕事が立て込んでくると閉じこもってやるじゃないですか。あれです」
首というより、肩に近いところに呼気とは違う温度と湿り気が触れた、その瞬間、音を立てて吸われていた。
「…あ、あ……ッ」
その、おぞましくさえ思える感触に喉を上げると、口腔内に指を差し入れられて反射的にガリ、と噛んだ。
荀ケはひとしきり吸い上げると、唇を、そして身体を初めに触れてきた時と同じようにそっと離した。

嵐と共に、厄災も去ろうとしていた。

「丞相にお願いして、許可をいただいておきましょう」
「そんな許しなど出るものか」
俺は荀ケを睨んだ。
「仕事を手伝ってもらう話ですよ、何の問題もないでしょう?まったく…」にこ、と微笑んで小首を傾げる。「元直殿の反応が可愛いらしいから、思わず印を付けたくなってしまったじゃありませんか」
「ふざけないでいただこう」
内心の動揺を少しでも悟られたくなくて、静かに俺は襟を正した。
「ほら」
荀ケは俺が噛んだ指を立てて見せる。じわりと内出血を始めている。
「これは貴方が付けた印」
そして自らの唇に押し当てた。
「楽しみですね」
「やめてくれ!」
俺は悲鳴に近い声を上げていた。
「もう、ほっといてくれ!俺に構うな!」
「元直殿、雨も大分小降りになってきたようです」
「雨のことなどどうでもいい!…頼むから……」
自分の縋るような声に俺自身が驚き、思わず小声になったその言葉は必要以上に哀願たらしいものになって耳につく。
「構わないでくれ…!」
しかし、忌々しいほど穏やかな笑顔を向けてくるその男に、そんな懇願など通じるはずもない。
「今ならそう濡れずに帰れるでしょう。一緒に帰りたいけど、丞相にお会いしてきますので今日はこれで」
机上に置かれた竹簡書を投げつけたい衝動を必死に抑えながら、その背中が視界から消え去るまで睨むのが精一杯だった。

そんな無言の抵抗しか出来ない自分が情けなかった。

自分では見ることが出来ない肩口のうっ血の痕が、掌の傷よりも鈍い痛みとなって、俺を蝕んでいた。





<了>

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